まず押さえたいこと
- 戦略マップは、方針を表示するだけでなく、社員が目標や指標を考え、提案し直すための場として働く。完成図に加え、書き換える過程を見る。
- 同じ図式を使っていても、全員が同じ意味を共有しているとは限らない。異なる見方を持つ部門が、共通の形式で検討を続けられることに価値がある。
- BSCの利用を支えたのは、研修、月次レビュー、予算との検討などの繰り返しだった。導入や参加の継続を、財務・環境成果の改善とは分けて評価する。
きれいな戦略マップを配った後に、何が起きるか
会社の方針を、目標と指標を結んだ一枚の図にまとめる。それでも現場から「自分の仕事とどう関係するのか」という声が出ることがあります。この論文は、そのような状況で図や指標がどう使われ、社員がどう関与していくかを追っています。
対象となるバランスト・スコアカード(Balanced Scorecard: BSC)は、財務、顧客、社内業務、学習と成長という複数の視点から、戦略と目標、業績指標を結ぶ考え方です。著者らが注目するのは、図に表された戦略をそのまま実行する過程に加え、図を囲んで戦略自体が具体化され、修正される過程です。
研究対象はサステナビリティ専用の制度ではありません。しかし、重要課題を戦略マップやKPIへつなぐとき、社員がどこまで内容を問い直せるかを考えるうえで、参考になる事例です。
大規模企業の導入を、会議と資料から長く追った
研究対象は、中東の石油・ガス企業MEGOCという仮名の会社です。政府の管理下にあり、探鉱、生産、精製、販売などを担う大規模組織でした。研究者は2003年5月~2005年12月と2008年に、経営企画、技術・操業支援、財務、人事などで調査しました。
聞き取りは合計49回で、同じ人への再訪も含まれます。多くは1~2時間で、録音を行わず詳細な記録を取り、直後に文章化しました。さらに、戦略マップ、研修資料、議事録、社内文書を収集し、会議やワークショップの観察と照合しています。
この設計によって、担当者が後から語る導入目的だけでなく、会議で図を書き換える場面や、時間とともに部門の関与が変わる過程を捉えています。多数企業を比較してBSCの効果を推定する研究とは、得られる知見が異なります。
同じ方針でも、部門ごとに意味が違っていた
2002年、会社は国への収益貢献や地域経済の発展を目指し、六つの戦略上の重点方針を定めました。しかし、「企業業績を変える」「将来に向けて人材を準備する」といった言葉が、各人の仕事に何を求めるかは明確ではありませんでした。
技術・操業支援の部門では、社員が会社の目標と自分の仕事の関係をつかめず、部門間でも解釈が揃っていませんでした。財務の担当者は、ほかの部門の説明に計画の精度、費用削減、収益増加が出てこないことに不満を持ちます。同じ「価値を加える」という言葉でも、重視する仕事が違っていたのです。
そこでBSCは、すでに一致している理解を配るだけの道具にはなりませんでした。方針を部門の目標や指標へ結びつける際に、各部門が自分たちにとっての意味を提案する場になりました。
指標を作って持ち寄ることで、方針が具体化する
技術・操業支援の指標担当者は、社内システムの機能を使い、異なるデータや概念を組み合わせて新しい指標を試作していました。案を月次のBSC会議へ持ち込み、受け入れられなかったり、足りない要素に気づいたりすると、再び作り直します。
ここでは指標の一覧が出発点になり、担当者が仕事の知識を使って内容を改善しています。戦略上の方針とBSCの視点を縦横に並べた図も、どの目標をどこへ置くかを考えるために使われました。空欄や未確定の関係が、社員の検討を呼び込んだ点が重要です。
別の部門では、従来の四つの視点に、健康・安全・環境を含む二つの視点を加える案が生まれました。図の項目を変えることは、会社の方針のどの側面を重く扱うかを変えることでもありました。
対話を重ねても、意味が一つに揃うわけではない
2003年の技術・操業支援部門では、700人を超える社員が集まる対話の場が設けられ、翌年には一部の取引先や顧客も参加しました。参加者は複数のテーブルを回り、図やメモを使って目標、指標、改善案を議論しました。
ある技術者が最初のテーブルへ戻ると、自分の描いた戦略マップの骨組みは残っていたものの、目標や指標の内容は大きく変わっていました。ほかの参加者が、自分たちの問題や知識を持ち込んで書き換えていたからです。
著者らは、これを単純な意思統一として説明しません。共有されたのは、目標と指標を図に配置し、関係を問い直す方法でした。その方法を使いながら、人々は異なる解釈を持ち続けることができます。社内浸透を考える際にも、全員が同じ説明をすることと、異なる経験を持ち寄って共同で判断できることは、区別して捉えられます。
財務部門は、図を書き換えることで議論へ戻った
財務部門は当初、BSCをほかの部門の業務用の道具と見なし、予算とのつながりに懐疑的でした。しかし、BSCの周囲で重要な議論が進むにつれ、財務部門も運用指標を金額へ結びつける役割を提案するようになります。
論文が詳しく描く研修では、技術側の担当者が、知識共有、在庫回転、納期、顧客との接点などを戦略マップに置きました。これに対して財務の担当者は、その場でスライドを修正し、知識共有に使う支出の割合、プロジェクトの費用、予算内での完了、費用の抑制・削減などを加えました。
財務の数字を最後の成果欄に置くか、仕事の各段階で確かめるかという違いが、図の上で表れた場面です。財務部門の参加は、最初の図への同意だけでなく、自分たちの論点を持ち込んで図を変えることを通して進みました。
図の四つの働きを、日常の運用へ結びつける
著者らは、BSCを人が考え、議論を組み立てる仕掛け(rhetorical machine)として捉え、四つの働きを示します。ここでの「レトリック」は、見栄えや説得の言葉遣いに限らず、図を使って知識を整理し、新しい考えを生む技法を意味します。
| 図の働き | 事例で起きたこと |
|---|---|
| 考えを試す場になる | 目標や指標を試作し、方針とのつながりを描く |
| 整理と発想の方法を共有する | 共通の図式を使い、新しい視点や関係を加える |
| 問い直しと調整を支える | 異なる部門が前提や指標を持ち込み、内容を修正する |
| 繰り返す参加を支える | 研修やレビューへ戻り、目標や指標を更新する |
会社では、年次の研修、月次のBSCレビュー、四半期の予算との合同レビュー、年次の評価・育成面談がつながっていました。図は一度作って終わる資料ではなく、繰り返し訪れる検討の場の中心にあったのです。四つは導入の段階を表す順番ではなく、互いに関わる分析上の特徴です。
論文でいう繰り返しの儀式(motivating ritual)は、形だけの会議という意味ではありません。参加者が図を再び見直し、よりよい組み合わせを見つけられると期待して、次の検討へ戻ることを指します。完成しないことと、検討が続くことが結びついています。
「未完成だから役立つ」を、曖昧でよいとは読まない
論文の中心は、業績を完全には表せない指標体系でも、その不完全さ(incompleteness)を巡る作業が社員の参加を生むという説明です。これは、計算式を曖昧にしてよい、何度でも都合よく目標を変えてよい、という提案ではありません。
本サイトからの実務的な応用としては、実績比較に必要な定義や計算ルールを明示しつつ、なぜその指標を使うか、他の成果とどう関係するかを検討できるようにする方法が考えられます。ルールの変更は記録し、数値の比較と戦略の見直しを両立させる必要があります。
また、事例の対話にも政府の方針や既存の利害による制約があり、何でも自由に変えられたわけではありません。研究が明らかにしたのはBSCの利用・変化の過程であり、対話によって収益や環境成果が改善したという効果検証ではありません。
原著は、図を書き換える場面から読むとよい
まず第5節の実際の出来事を読み、図4の戦略マップで、技術側と財務側がどの指標を置いたかを比べます。続いて図3で、そのやり取りがどの会議や研修のなかで繰り返されたかを確認してください。最後に図2と結論へ戻ると、四つの理論的な特徴が具体的な場面と結びつきます。
自社へ持ち帰るなら、現在の戦略マップを一枚選び、異なる部門に「この矢印は何を根拠に引いたのか」「自分の仕事から見ると何が抜けているか」を尋ねられます。全員の説明を揃えることを急ぐより、どこで見方が分かれ、何を一緒に確かめる必要があるかを把握する使い方です。
対象論文
Exploring How the Balanced Scorecard Engages and Unfolds: Articulating the Visual Power of Accounting Inscriptions
Busco, C., & Quattrone, P. (2015). Exploring how the Balanced Scorecard engages and unfolds: Articulating the visual power of accounting inscriptions. Contemporary Accounting Research, 32(3), 1236–1262. https://doi.org/10.1111/1911-3846.12105
原著の掲載ページを開く ↗原著本文に基づく解説 · 2026年9月13日
応用例・実務への問い・書籍との接点は本欄の考察です。